朝食を済ませてヴェネチア・メストレ駅からBassano del Grappa駅へ。約1時間。駅の売店でバスの切符を買って、ポッサーニョ(Possagno)というバス停で降りる。歩いてすぐ、アントニオ・カノーヴァ彫像博物館(Museum Gipsoteca Antonio Canova)に到着。18世紀半ばから19世紀初めにかけて活躍した彫刻家の生家であり、転用されて博物館となった建物の一部をカルロ・スカルパが改修している。
内部は改修の最中で、スカルパの手がけた部分(スカルパ・ホール)は見ることが出来ないと言われてしまう。仕方がないので石膏像を見て回る。しかしこれがとても素晴らしい。メインの展示空間であるバシリカ風の旧館は壁も天井も白いスタッコで仕上げられていて、そこに置かれた数十体ほどの石膏像も皆白く、躍動的なポーズで静止している。神話の様々なシーンの一瞬を切り取って同じ空間に並べられることで醸される静謐さに、時間の感覚が遠のいていくようだった。
そうこうしてぼんやりしていると、なんとスカルパ・ホールに入れてくれることに。妻が館内の人に話しかけたところ偶然にも館長さんだったので、ここぞとばかりに夫がスカルパの空間を見たがっているということをアピールしてくれて、館長さんは少しの時間ならということで案内をしてくれることになったのだ。妻と館長さんに感謝。
足を踏み入れたスカルパ・ホールは既存の邸宅の隙間に纏わりつくように増築されていて、旧館と同様に白い空間として調子を合わせながらも、床に段差をつけて人を誘導していく点や、天井の高さを変えて気積を切り替える点など、旧館にはない要素を取り入れている。加えて何と言ってもスカルパの発明的な光の取り入れ方は、彫刻と白い空間が持っている静けさをより一層引き立てていた。
館内の撮影は禁止されていたため、カメラに頼ることなく自分の体で空間を体感できた。館長さんにお礼を言ってお別れする。
次に向かったのはブリオン家の墓地(Tomba Brion)。ポッサーニョのバス停から墓地の最寄りバス停(San Vito D’altivole Via Asolana)までは40分くらいで到着する予定が、1時間を過ぎても着く気配がない。何度もバスの運転手に聞くも「大丈夫、大丈夫」といった感じで軽くあしらわれてしまう。結局2時間近くバスに揺られてやっと到着。どうやら同じバス停に着く経路がいくつかあり、遠回りをするバスに乗ってしまったようだ。それならそうと助言をしてくれれば良いものを。
ともあれ、到着したのだから気をとり直して墓地に向かって南に歩き出す。糸杉の並木を抜けると左手に墓地が見えてくる。
共同墓地にはお墓まいりをする方が意外にも多く、手入れが行き届いていて墓地自体が生き生きしている。この中にブリオン家の墓へのエントランスが取られている。
共同墓地とブリオン家の墓とは完全に区切られているのではなく、部分的に見通せるようになっている。ブリオン家の墓地には電機企業として戦後に設立されたブリオンヴェガ社の一族が眠っている。共同墓地とは比べものにならない広さからしてブリオン家の繁栄の具合が伝わってくるけれど、共同墓地側からブリオン家の墓が見通せることで、豊かな環境が共同墓地側に流れ込んでくるように感じられる。墓地で最も重要な石棺とアーチ(arcosolium)が角度を振って共同墓地に向けられているのもこちら側との応答を意識したものであるに違いない。
エントランスの先には二つの丸窓が噛み合うように開けられていて、向こうの景色を切り取っている。噛み合う円はキリスト教芸術で用いられる図式でヴェシカパイシスというらしい。丸窓にはムラーノ島産のガラスタイルが嵌め込まれていて、右手が青、左手が茶褐色。
池に沈められた甕、その上に浮かべるように敷かれたコンクリートの回廊を渡る。池から直接生えたような脚がパヴィリオンを支えている。
コンクリートにかたどられた階段状の意匠は水中にも続いていて、魚の住処になっている。4本のスチールを一纏めにした柱は水中の基礎にピン接合されている。
パヴィリオン内部。立った時の目線とパヴィリオンの壁下端がぴったりと揃うように作られている。更に外部のコンクリート壁に貼られた一列のタイルとも一致。
パヴィリオンから北方向を向く。手前の四角い囲いは噴水。遠くに教会の鐘楼が見える。いつまでもぼんやりしてしまう。
かと思うと視線の先から驚くような精巧なディテールが飛び込んできてハッとしてしまう。ぼんやりと覚醒が同居する空間。
庭に植えられている樹木にそこはかとなく日本を感じる。松(日本の松とはだいぶ姿が違うが)、竹、モミジ。スカルパは中国や日本の意匠をあちこちで引用している。例えば敷地の北西角の斜めに倒れたコンクリート壁は穴が開けられているのだけど、双喜紋(ラーメンのどんぶりの内側に書いてある喜喜という文字)をイメージしているらしい。
墓地を訪れた後に手に入れた作品集(CARLO SCARPA BY ROBERT McCARTER)の説明文の一部を翻訳したので掲載しておく。
ブリオン家の墓地
サン・ビート・アルチヴォーレ(San Vito d’Altivole)の市営共同墓地の増築は、カルロ・スカルパの仕事の中で最も訪れられ、研究され、有名な作品だ。サン・ビートは世界的にエレクトロニクス企業として認知されているブリオンヴェガエレクトロニクスの設立者であるジュゼッペ・ブリオン(Giuseppe Brion)が生まれ育った街だ。ブリオンヴェガ社の作り出す製品、ラジオ、テレビ、その他様々な工業製品は、そのデザインのクオリティによって様々な賞を受賞しており、MOMAのコレクションにも加えられている。スカルパはブリオンのことを「地方からやってきて何も持たないところからスタートして、自分の仕事を通して重要な人物となった」と評した。1968年、ジュゼッペ ブリオンが亡くなると、妻のオノリーナ(Onorina)は夫の墓のデザインをスカルパに依頼した。一族はヴェネト州の北に位置する村の共同墓地に霊廟と言っていい広い土地を所有していた。もともと町の南に位置する四角い土地が共同墓地となっていたが、隣接する東側と北側に2200㎡ものL型の土地をブリオン家が買ったものだ。1970年から1977年にかけて建設され、これがスカルパの最後の仕事となった。
スカルパの初期のスタディはアーチが掛かった墓はL型プランの南側に、タワーのような形をした木造の瞑想スペースはL型の土地のジョイントの部分に位置していた。チャペルはまだ存在していなかった。スカルパは、「この大きな土地の一部は芝生になる。広々とした土地は葬儀を目的とした寺院を増築することにも使えるだろうと考えていた」という言葉を残している。スカルパの初期のデザインでは、葬儀のチャペルは半円筒形のエントランス正面の重なる円形のヴェシカパイシス(vesica piscis)として表されていた。1970年3月、サン・ビートの町役場に提出されたプランでは、アーチが掛かった墓はL型のヒンジの部分、二方に伸びる腕の根元である北東角に移動している。更に墓は円形に掘り込まれて、45度の角度を振られて配置されている。L型の北西に位置する腕の端部には正方形のチャペルが、南に位置するもう一方の端部には瞑想のパヴィリオンがレイアウトされ、これが最終的な配置となった。チャペルとパヴィリオンはどちらも水盤に囲われている。親族のための墓は北の壁に沿って建てられることになる。また瞑想パヴィリオンへのアプローチは墓から直線の軸で結び、芝生から直接的に池の上を飛び石で渡れるようになっている。最初の模型を見た村の司祭の影響で、西端には糸杉が植えられた。スカルパはこう回想している。「彼は”それで我々のような貧しい司祭はどこに眠るのだ?”と言ったんだ。私はそれについて考えがないことを申し上げた。イタリアでは司祭は教会の中に埋葬されていたから。だから私は断面を区切って地面を10cmほど低くして9.5mある11本の糸杉を植えたんだ。そうして亡くなった司祭たちのスペースを作ったんだよ」。
スカルパの他のどの仕事にも増して、ブリオン家の墓地にはジグザグの表現(ziggurat)が使われている。型をつけてバッサリ切りとるやり方ではなく、材料の端部が周りの空気に開かれるように形が与えられているのだ。墓地の主な材料であるコンクリートにはどこにだってジグザグの表現が使われていて、その結果としてピラミッドのようであったり、V字のようであったりして、それがヴォイドなのかソリッドなのか、水平なのか垂直なのか、読み取る者に様々な解釈を与える。これは重要なことで、ジグザグの表現はスカルパの床や壁のパターンにも直接的に関係付けられるし、色々なことが読み取れる。正方形から3/4を抜き出したL型の土地だってジグザグのパターンとも言える。スカルパはジグザグの段差の単位を5.5cmとしてこう説明している。「光だったり、5.5cmのグリッドで全てを解いていくことだったり、私には確かなものが必要だった。こうしたモチーフは特別なことではないように見えるけど、実際は表現が豊かになるような余地や動機をもたらすものだよ。全て5.5、そして11という数字を使ったんだ。」墓地の表面を特徴付ける絶え間ない光や影の帯を見るにつけ、我々はスカルパの光やジグザグモジュールに対する結びつきを理解できるようになる。
墓地が完成した後、彼が亡くなる年に行われたレクチャーで、スカルパは皮肉っぽく、でも自分のデザインをどう捉えているかを語り始めた。「ブリオン家の墓について、私は千本の糸杉を植えましょうという提案だってできたんだ。何年もかけて千本の糸杉を植えて、自然な公園になって、イベントが催される。私の建築よりも良い影響が与えられたでしょうね。でも、仕事のお仕舞いにはこう考えるようになる。”やれやれ、完全に誤解していた!”と。まだピラミッドを建てた誰だってジグザグのこうした効果のことを考えなかったと思うんだ。・・・我々には確かなものなんてないんだよ。全てに対して異論があって、建築は頼りがない。過去にだって、カタルーニャの建築はフランスのプロヴァンスの建築とも、イタリアのシチリアの建築とも似ている。ちょっとしか違わない言語がこれらの地方では話されているのだから。」
ブリオン家の墓地のアプローチはイタリアの墓地によくあるように糸杉の並木道に沿っている。教会の西に面した村の大通りから畑を突っ切る小さな並木道が伸びて共同墓地の西側を通る。近付いていくとマッシブなコンクリートの壁が現れる。ブリオン家の墓地の北側と東側を囲う壁だ。内側に30度傾いている板状の壁は高さが240cmある。アイレベルよりもっと上だ。刃物のような傾いた壁は控え壁で支えられている。北西に位置するピラミッド状の壁は2方向から持ち出されていて、上方はコンクリートで作られた格子状の窓が開いている。格子の間からは陽に照らされた低木の葉がちらちら見えている。水平に開けられた窓は中国では慶事に用いられる表意文字「双喜紋」をモチーフにしている。この表意文字は敷地のそれぞれのコーナーに使われている。壁の背後には11本の糸杉が密に植えられていて奥に進むと2つのコンクリート壁で囲われたのヴォリュームが現れる。近い方は45度の角度が振られて糸杉の背後に立っている。村人に開かれている、高いヴォリュームは葬儀用のチャペルでコンクリートの引き戸でエントランスが仕切られている。西側のコンクリートの壁は既存の共同墓地の壁よりもわずかにセットバックされている。古いものにたいしての配慮である。
既存墓地への入り口は町の教会と同じく西側に取られている。スタッコで仕上げられた組積造の壁が2箇所開けられていて入り口とされている。入り口から東に向けて、通路は石張りになっていて、この通路の先にブリオン家の墓地の進入路が位置している。スカルパはこの進入路をギリシア神殿の入り口という意味のプロピュライア(propylaeum)と呼び、アテネ アクロポリスのT型の入り口の構造と似ていることを言及している。一族の霊廟は既存墓地の北と東に位置し、このプロピュライアは一つの霊廟の一角を占めている。正面左手の方は壁の上方が開けられていて抑制された視界が広がる。ジグザグ状の低い壁の向こうにはブリオンの墓を保護する低く架けられたアーチを見つけることができる。また、正面入り口のコンクリート上方には垂直方向にも水平方向にも深さ5.5cmの段々がつけられていて45度の角度で後退していく。絶え間ないジグザグの入り口にあって、唯一の例外は入り口上部のまぐさだ。このコンクリート製のまぐさはフラットな表面で、その中央上部には「Ω」の文字を逆さまにしたような真鍮製の小片がはめ込まれている。入り口両脇の壁は左に向かって段々になっているが、上部の庇にあっては右側に向かって段々がつけられている。
共同墓地の石の歩廊はプロピュライアにも引き込まれ、3段の階段にぶつかる。更にその階段の上には狭いステップが3段乗せられている。この6段のコンクリート製のステップは踏み面のエッジに薄いスチールの帯で鋳られた溝があるものの、お互いの3段の調子が揃っていない。幅の狭い方の3段は左側の壁に若干寄せられて、真鍮製の小片が嵌められている。低いまぐさの下をくぐると、天井高さが高くなって、高窓を通して光が前方からも後方からも差し込んでくる。プロピュライアのコンクリート天井は打ち放しコンクリートで長方形に縁取られた白い石膏磨き仕上げにされている。丸い真鍮製の鋲のような円盤が石膏部分の外側のコーナーに配置されている。足を踏み入れると、コンクリートの側壁もまた石膏で部分的に仕上げられていて、その面はコンクリートに開けられた2つのリングから入ってくる光を反射している。
しかし、この開口は、窓なのだろうか、ドアなのだろうか。スカルパはこう言う。「あなたがここを訪れて、この”2つの目”を通してみることで最初の印象が得られるのです」。プロピュライアの通路の中心線に開けられたこの穴は噛み合う2つの大きな円形であり、(キリスト教芸術で用いられる図式である)ヴェシカパイシスを形作る。リングの端部は真鍮の縁取りがされており、ムラーノ島で作られたガラスモザイクタイルが嵌め込まれている。左手のリングはピンク色、右手のリングは青色になっていて、これはこの墓に眠る夫婦を象徴するものだ。リングの上端は身長よりも低く位置していて、下端は床から少し上がっている。開口を通して、我々はその外側に狭くて深さのある水路が通っていることがわかる。視線を遠くにやるとこちら側に傾いた境界塀が目に入る。我々が立っている通路の内部は打ち放しコンクリートで縁取られた白い磨き石膏仕上げの壁面だ。そして、我々が立っている場所と同じ高さまで持ち上げられた、広大な緑地が広がる。共同墓地から比べると75cmもの高さになる。ケネス・フランプトンはこう記している。「持ち上げられた地面は、そこだけ切り離されたような感覚、距離感といったものを確保する装置として作用する。アプローチ側から見ると、内部の庭に立っている人のことは持ち上げられていることを認識し距離を感じると同時に、矛盾したことであるが、そこが入っていきやすい場所だと認識する。」
持ち上げられた緑地に立つと、今度はこちらに傾いた境界塀が目線の高さにあることに気がつく。高さが165cm、完全に水平に作られている。プロピュライアを通過した我々は元々持っていた水平線を消し去られ、代わりに持ち上げられた墓地が作り出す新しい水平線に置き換えられる。階段の先の廊下は南北に走っていて、天井に開けられた開口から日が差し込んでくる。朝にはスチールで縁取られたプレキャストコンクリートで舗装されたこの廊下の床に二重円からの光が落ちる。床面にはスチールの帯が廊下に水平に走るように埋め込まれている。二重円の前の床面には2本の轍のような真鍮製の溝がつけられていて、底面はに勾配がつけられている。これらの溝は中央で底に穴が開けられていて、そこから我々の足元には水盤があって、表面から水の反射を認めることができる。これは壁の外側に平行に走る水盤に続いている。この場所の天井はコンクリートと埋め込まれたコールテン鋼とでストライプに仕上げられている。ストライプは廊下と平行に走っていて、錆で保護されたコールテン鋼はマットで光を少しも反射しない。
廊下は右手と左手がひらけていて、ピンクのリングの側が左、つまり墓がある北側だ。青いリングの側が右で、南側に伸びる歩廊は長さがあるため暗く、途中で更に狭くなっている。その先から差してくる明るい光によって向こう側ははっきり見ることができない。天井は一様であるが、床面は右手と左手とで異なる。左手の床はコンクリートパネルのそれぞれにスチールの帯が規則正しく東西に反復する一方で、右手の暗い方の床において、南からの光を受けて鈍く光を反射するこのスチールの帯は西から東へと一方向で、狭い廊下の中央に至るまで続く。左手の廊下は短く、明るく、墓へと続く芝生に開かれている。対照的に右手の廊下は長く、暗く、端部では光を垂直に切り取る。明らかに前者は公共性のためのルートで、後者は私的なものに向けられている。
右手を進むと、我々の足音によって狭いコンクリートの歩廊は神聖さを漂わせ、我々の下には水があることを思い起こさせる。フランプトンはこう指摘する。「水には両義的な役割がある。つまり、表面においてはそのゆっくりとした動きは生命の象徴である。一方でプレキャストの床の下は運河のように長い水だめが封じ込められている。この陰気な作りは瞑想の水盤へ我々を導く発端となている」。幅が半分になる廊下のお終いでは、外側に大きな水盤が広がる。床に埋め込まれたスチールの帯に従って歩みを進め、光の垂直面を通り抜ける。水に向かって歩廊から出ようとする。出口の少し手前には奇妙なゲートを目にする。厚い板ガラスが真鍮の金具で固定されていて、アイレベルより少し下の半分を占めている。開けるためには、コンクリートの床面に引き落とさなければならない。この敷居を超えて廊下の終端に至る。そしてゲートがもとに戻るのが聞こえる。振り返るとガラスから水が滴っている。そうしてガラスが床下に引き落とされている時は水中に沈められているということがわかるのだ。内部から見るとこのガラスは完全な透明であり、外側から見ると我々の姿を廊下の中に浮かび上がらせる。
陽に照らされた外に抜け出ると、床の作りがシンプルに切り替わる。見切りがないコンクリート平板は端部が2段のジグザグがつけられている。廊下の右手の壁面は白色の石膏磨き仕上げではなくなり、左手の壁は開けて、L型の土地の南部に位置する大きな水盤が姿を現す。開口の端部はムラーノ島産のガラスタイルが埋め込まれ、壁の小口は真鍮の見切り材でカバーされている。右側の壁はセットバックして、今まで狭い廊下だったものが、両脇に水盤が広がる渡り廊下になる。右手のコンクリート打ち放しの高い壁は四角い水盤の3方をぐるりと取り囲む。白、黒、緑、金、銀のガラスタイルがアイレベルより少し下の高さに一列の帯になって壁に埋め込まれている。この高さは境界塀の上端高さに揃えられている。つまり、墓地内に作り出した水平線の高さだ。コンクリート床は我々をパヴィリオンへと導く。パヴィリオンは箱状の木製の作りで、広い池の南西の一角を占める小さなコンクリートの島の上に浮かんでいる。持ち上げられたパヴィリオンの壁の下端は背後のガラスタイルで色付けされた水平線と同じ高さに定められている。もし今、ガラスのゲートが開かれたら、外壁に取り付けられたステンレスケーブルや滑車やカウンターウェイトが動くのを見ることができる。これは多分、我々と共に存在しているというシグナルを通して人々の動きが他者に記録されることに関心を寄せていたスカルパの手法の一つなのだ。
持ち上げられた天蓋、スカルパの言うところの瞑想のパヴィリオンは外側はスチールで縁取られた、薄いカラマツの板がはめ込まれている。カラマツの板の張り方は平面的なジグザクパターンで、パウル・クレーの絵画のようでもある。鞘状になっている内側の壁は真鍮で縁取られ、暗いグリーンでラッカー塗装されたパネルだ。極小のジグザグ状の角の役物はガラスタイルが作り出す内なる水平線に揃えられている。それでも人が出入りするところは開口が高くなっている。パヴィリオンは外側に持ち出された4本の柱で支えられている。それぞれの壁の端から1/4の位置に建てられた柱は風車のような平面を作る。柱の構造的なジョイントや支持を送り出す方法については入念な検討が行われた。一番下の分節ではコールテンの角鋼の細い柱4本が真鍮の金物で束ねられ、足元は水中の基礎コンクリートに大きな真鍮金物でピン接合されている。4本の柱の上端は小さなU字型のジグザグのキャップが被せてある。2つ目の分節は同様に4本が一纏めになった柱で、パヴィリオン側、つまり下の分節よりも内側に向かってずらされている。2つの分節の間は少しの隙間があって、上下2点でスチールの持ち出しで接合されている。この分節の下端には球体が彫り込まれていて、「Ω」の形をした真鍮のキャップが被せてある。この分節の頂部は、丁度カラマツの壁体の下端の直下にあって、2対のL型のスチールプレートと真鍮のコーナー持ち出し材とが結び付けられている。これが垂直な柱とパヴィリオンを横切る二重の水平なスチールバーをつなぐ。こうして、浮遊した木製壁を支持する構造フレームが風車状の平面を形作っている。
パヴィリオンと歩廊との床面は、下を覗き込むと水面が目に入ってくるくらいの少しの隙間で切り離されている。厚さのないコンクリートの島のようなプラットフォームはすぐ下に迫る水盤の上に浮かんでいるようだ。水中にもジグザク形状が認められ、水盤の深いところへと消えていく。水盤の2方向は水中から立ち上がる壁で囲われている。長い背後の壁、つまり墓地の南端の壁はいつも影になっているのだが、水盤に近づくにつれて3層に分けて段々と壁体が薄くなっていく。
瞑想のパヴィリオンの持ち上げられた天蓋の外部、側方と後方は内側の表面に被せたカラマツの壁によって空に開かれている。パヴィリオンの小さな屋根のある部分は内側に影を作り、我々の視界はラッカー仕上げされた下方の壁で操作されていることに気がつく。水平線より下に制限された視界は、水面や水中に沈没しているコンクリートの構造物に対する意識を我々に向かわせる。ヴェネツィアのアクア・アルタ(acqua alta)、つまり異常潮位のことも思い起こさせる。前方と後方の壁ではラッカー仕上げの壁の中央は真鍮の役物によって切り離されていて、北側に向いている方の壁の底には不完全な噛み合う円形でくり抜かれた真鍮製のつなぎ材が設置されている。1対の目のような穴を通して墓地を眺めてみる。しかしながらこの覗き穴は一般的な男性の目線にしては低すぎる。スカルパは立面ドローイングに彼自身と彼の息子のトビア(Tobia)そして妻のニニ(Nini)の正確なサイズの姿を書き込んで、唯一彼女の目線と覗き穴を揃えた。パヴィリオンのドローイングでは、スカルパの他の仕事も同様であるが、女性の姿が書き込まれることが多い。時に裸で、女性のクライアントの姿であることもしばしばだった。この場合、スカルパはこの覗き穴は立った時の女性が使うことを想定してデザインしている。特に彼のクライアントであるオノリーナに向けて。
この覗き穴を通して、我々は交わる2つの線を認めることができる。内側に倒れた境界塀がつくる水平線とアーチが架けられた2つの墓の中心軸が作る垂直線だ。墓とプロピュライアの廊下の間、境界塀の上に立ち上がっているのがサン・ヴィート教会の鐘楼だ。その向こうにはドローミティ山脈(Dolomite Mountains)がひかえる。スカルパは「池の上には眺めを壊すようなパースペクティブな要素が必要だということを決めたんだ。池は私の好むものだよ。多分私がヴェネツィア人だからかもしれない。…こみ上げる確かなポイントに運河をデザインした。そして陽の光の下にブリオンと彼の妻が眠る2つの石棺をレイアウトしたんだ。」と述べている。墓地の南端から見ると、我々の前に広がる北側の眺めは陽光に照らされて輝いている。水盤の右手には竹が植えられた八角形のプランターが浮かんでいる。正面には平面形状が正方形の噴水があり、モザイクタイルが貼られている。水盤の右手では内側に傾く境界塀が途切れてV字型を作っている。クレーのようなスチールのケーブルがピンと張られていて左手の歩廊の壁体がそれを支持している。黒い滑車やカウンターウェイトは水盤の上にまとめられている。狭い運河は大きな水盤から歩廊の壁体に沿って、エントランスに開けられていた2重リングのすぐ下を流れている。
歩廊を歩いて戻る。2重リングを過ぎると天井のあるところから緑地の上に出る。前方には二つの墓がある。共同墓地に向かって左側の歩廊の壁の内側の端部には青緑のガラスタイルが貼られている。外側はイエローゴールドで、これは歩廊の反対側の出口とは逆になっている。コンクリートで囲われた水路をまたいで芝生の上に立って、南方の池の上に浮かぶ瞑想のパヴィリオンを見返す。パヴィリオンのファサードと背後の壁は日陰になっている。2重リングは内側と同様に外側も右手が青で左手がピンクだ。二重窓の近くには低いスチールの柱が水路から立ち上がり、ステンレスの円筒を支持している。6本のケーブルが6角形の金物に留められて、それが円筒にくっついている。ケーブルはピンと張られて反対側の境界塀まで芝生の直上を走る。このケーブルは子供が池に近づかないように意図されたもので、跨ごうとすると引っかかってビーンという音が出るような高さに設定されている。
二つの墓の隣に立つと、壁の向こうに街並みや農地を見つけることができるが、壁の外にいる人は内側を見ることができない。それは隔絶した感覚を呼び覚ます。ここに、水路の水源になっている1対の円筒形の容器がある。アルハンブラのギンバイカの中庭(Court of Myrtles)にあるような鍵穴の形状をした狭い溝の中の流れはより広い水路につながって、大きな水盤へと流れ込む。我々はまた、チャペルを取り囲む水盤が掘り込まれていると同時にジグザクのついたコンクリートの溝が傾いた境界塀の外側へ走っていることに気がつき、それによって我々が日常から切り離された世界にいるという感覚を補強しているのだ。フランプトンはこう記している。「嵩上げられた地面は広大な上水道と切り離せないという理由だけではなく、ヴェネツィアの干潟の真ん中にあるサン・ミケーレ島の巨大墓地を思い起こさせるに十分なヘルメス思想ゆえに、我々は再びヴェネツィアの隠喩に出くわすのだ。」
アーチが架けられた墓石は北東の位置に置かれていて、いつも陽の光を受けている。スカルパは「ブリオン夫妻の墓石は一番日当たりの良い場所にある。そして最も眺めの美しい場所だ。この村で生まれたのだから地面の近くにするように故人から依頼された。だから私がアルコソリウム(arcosolium)と呼んでいる小さなアーチを架けることにしたんだ。アルコソリウムは初期キリスト教時代のラテン語で、要人や殉教者が埋められた地下墓地(catacombs)ではこれ以上ないシンプルなアーチのことだ。」と記している。実際、墓石を覆っている低いヴォールトはアーチというより橋に近い形状だ。コンクリートで作られた4本のリブのような梁が両脇のバットレスに架け渡されていて、帽子のつばのような2枚の薄い板がリブの両側から片持ちで跳ね出している。長方形の控え壁は中央で深くカーブしている。それぞれの半分が一対のリブ状の梁を受けている。梁状に伸びた部分は4つのジグザグがつけられて、控え壁から外に跳ね出されている。これはアーチに対してかかる荷重を相殺している。この跳ね出したカウンターウェイトは墓地の芝生が茂る前であればより詳細に見えるだろう。小さな真鍮製のピヴォットヒンジや密実なコンクリートのヴォールトを支える土中の基礎の頂部から立ち上がる柱にピン接合されている部分などが。リブ状の梁の頂部は凹んでフラットになっていて、両端には真鍮のヒンジのような金具で印されている。
墓はヴォールトの真下、地面に埋められて低い壁に囲まれた円形のスペースに立っている。大理石の帯がはめ込まれた床はコンクリート玉石洗い出し仕上げになっている。この場所は円錐形に緩やかに傾斜した緑地の椀の底に位置している。墓は埋め込まれているようであるが、それが立っているレベルは周囲の共同墓地と同じレベルである。谷のような南西側の窪みはエントランスの歩廊に最も近く、弧を描くステップが墓に導く。小さな円形劇場を形作っている。一番低い段は円形の床の外側の壁から延長されたもので、墓の反対側で途切れる。そこでは金箔で作られた4つのヴェシカパイシスを形作るギリシアとケルトの天秤十字のヴァリエーションが墓の内側に掘り込まれている。水路の源は2つの墓石の中心に揃えて45度の角度をなす狭い溝に延長している。花を生けるための円筒形の器と十字の形をしたコンクリートの持ち出しの所で溝が途切れている。身を屈めてコンクリートの屋根の下に入り込むと、リブ付き梁の間に2つに分割されてスリットが開けられている。ムラーノ島産のガラスタイルがゴールドのハイライトをつけられて青と緑の帯が交互に天井に埋め込まれている。これらのタイルはわずかに青や緑の反射をしてチラチラ光り、ヴォールトの下の抑圧された空間に驚くような光の感覚を与える。つまり直上にコンクリートの覆いがあるというのに重さを感じさせないのだ。
夫婦の墓は底面がわずかに弧を描く白大理石の基礎の上に乗っており、端部は台形の御影石で囲われている。2つの墓の間の床には暗い縞のある黄色の大理石が埋め込まれた帯がある。また、白と黒の大理石でできたチェック模様の帯が天井のスリットに並行して走っている。長方形の石棺は底面と短辺側は御影石の板で閉じられているが、上部のフタと前後については黒檀の板で作られている。石棺の外側の側面、象牙でできたハンドルの下のところにはスカルパがデザインした文字で故人の名前が刻まれている。丸みを帯びた底面が地面に軽やかに接触するように見える一方で、墓の黒檀の上面は水平線に揃えられている。夫婦の墓は互いに近づくように傾いていて、これは最も心動かされる建築的しぐさである。スカルパはこう言う。「この世で愛し合って生きたのだから、亡くなってからでもお互いが惹かれ合うようにしておくのは素晴らしいことだと思う」。
ブリオン夫妻の墓と既存の共同墓地とは背の高いコンクリート壁によって仕切られており、石膏の磨き仕上げがされている。2つの墓に降りる階段の向かいの壁は高さいっぱいに開けられていて、外側の面はノコギリ状になっている。内側の仕上げは曲がり角の辺りとチャペルへと続くポルティコの中に延長している。石膏の壁は雨にさらされて汚れており、墓地のL型の部分のヒンジポイントが内側でも外側でもあるという両義的な意味を読み取らせる。この石膏仕上げの壁は地面を掘り込まれた通路の中に立っている。通路は持ち上げられて芝生の地面を横切っていて、南北方向の通路は南のプールと北の境界塀を結んでいて、東西方向の通路は西側のチャペルへ続いている。覆いのある墓に近づくと4つの異なるコンクリートのステップが掘り込まれた通路のくぼみにセットされている。踏むと異なるピッチの音がでる。
北側の境界塀に沿って、スカルパが言うところの「親族の聖堂」がある。少しだけ地面から持ち上げられた屋根は60度と30度の角度をなして傾いていて、境界塀の傾きに揃えられている。このコンクリートの量塊は緑地から1m離れていて、傾斜する屋根は一対の厚いチューブ状の真鍮の排水口を通じて水が排出される。この聖堂へは北側の傾斜する境界塀の足元を通る掘り込まれた通路からしか入ることができない。この薄暗い場所に入るには、我々は少し屈まなければならない。ここにはブリオン家の親族の墓があり、大理石の墓石には名が刻まれている。上部ではコンクリートの梁が横断している。天井とこの梁は黒い石膏磨き仕上げで四角く仕上げられ、コーナーは真鍮の金物で縁取られている。南に傾斜している屋根の頂部はスロット状に開口があって、洞窟のような暗い空間に光線を注いでいる。
音の出るステップに戻り、掘り込まれた通路を西に向かう。左手に共同墓地側の壁に沿って、その先は幅が広くなって傾斜している。続いて、右手には垂直にノコギリ状に端部処理されたコンクリート壁が立ち上がり、ポルティコのような歩廊の入り口は屋根がかかっていて、教会へと続いている。数段のステップを登り、天井いっぱいのスリットが右手の壁に開けられていて、芝生への見通しを確保している。左手は左右対称な黒いスチールのフレームで構成され内部は白いコンクリートがはめられた、日本とエジプトの折衷のような作りのドアがある。チャペルの庭に向けられた窓から照らされ、教会の聖具室として形作られたこの小さな部屋は2層に分かれた秘密の部屋があり、凝った作りの飾り棚を所蔵している。ポルティコの終わりではチャペルの三角形を描く、行列聖歌の通り道のために一般に開かれた玄関ホールに光が注いでいる。狭い垂直の開口から覗く水盤のレベルが、我々が立っている場所と同じだと言うことに気がつく。
チャペルはブリオン家から村人へ寄付されたものであるが、ブリオン家の墓地の一部へと組み込まれている。葬儀の用途としてはチャペルの公式な入り口は糸杉の村道から始まり、糸杉の小さな林に隣接した傾斜した境界塀が終わりとなる。量塊のあるスチール枠のコンクリート製のドアが地面からわずかに持ち上げられて境界塀の内側に設置されている。四角いスチールの腕がドアの前後にのびて、その先には真鍮の車輪がコンクリートの舗装に埋め込まれたスチールレールに乗っている。L型の無垢のステンレスで出来たドアハンドルがドアの端部にあることで、このドアは完全に締めることができない。指を怪我しないための配慮である。この思いドアを開けるためにはかなりの力が必要で、この動作がもつ儀式性を強調している。
チャペルの前の通りに入ると、左右の視界は高いコンクリート壁に遮られる。正方形の平面を回転させることでできた斜めの壁はプールから立ち上がっている。チャペルの壁は5本の垂直の縦スリットが開けられていて内側はジグザグ形状になっている。開口には水盤から水が溢れて来ないようにガラスがはめ込まれている。中央にはジグザグの凸状の段と、それに揃えて凹状の段がついていて、4つの金箔のヴェシカパイシスが象られている。入り口の通りの登り坂の表面はコンクリートスラブで仕上げられている。コンクリートスラブのジョイントには動線を横切るように緑が生えていて、我々の歩くペースを調整している。斜路を登ると、チャペルの左後方角が目に入る。水盤に囲われていて、水面の下にもジグザグの複雑な作りが認められ、さながら水没した遺構のようだ。
斜路の頂上では右手の壁が後退して、床のコンクリートが風車のパターンをした小さな前庭に出る。北側のコンクリート壁の開口の先のチャペルの玄関ホールはとても広く、両側からコンクリートの腕が持ち出されていている。左手は水盤のためのポンプルームがコンクリートの覆いの下に隠れている。右手は聖具室のファサードが保護のためにニッチ状に奥まっている場所にある。まぐさの下を通過して、日陰になっている三角形のチャペル入り口に入る。床は小さな四角い石で舗装されている一方で、天井は白い石膏で仕上げられている。通路の先には2つの石棺のヴォールト屋根がちらりと見える。
チャペルの入り口の二重ドアは一つがもう一つの入れ子状になっている。葬儀などで用いられる大きなドアはホワイトコンクリートがはめ込まれたスチールフレームで作られていて、わずかに床から浮かんでいる。ドアは床から天井までのスチールのロッドが軸になっていて、それが回転することで開く。白い長方形をスチールの線材が縁取ることから、スカルパはこのドアをモンドリアンスタイルドアと呼んでいた。小さい方のドアはコンクリートの壁の中央に吊られていて、下半分は格子状の木製である。コンクリートのドアは驚くほど簡単に開けられ、フルオープンの際は左手の壁に重なる。外部の三角形状の玄関ホールは内側の空間とサイズの上でも形状の上でも似通っている。わずかな下りの段差があって、それを解消するために真鍮の敷居が設置してある。棺を乗せた台車の移動のためである。下の床はチャペルの壁面と45度の角度をなして四角い石の舗装がされている。
垂直のスリットからの光で照らされている側廊の左手には、聖水が入れられた小さな白い大理石のフォント(洗礼盤)がある。円盤型で丸みを帯びている。フォントのふたは噛み合う二重円で出来ていて、真鍮のつまみをスライドすることで開け閉めできる。前には天井一杯に自立した円形の板状のコンクリートのゲートがある。立面的には「Ω」型をしていて壁と天井から切り離されている。円孤の内側は凹んでいて、濃い青で塗られている。真下の床には真鍮の小片が埋め込まれていて十字形が45度回転して2つ刻印されている。この小さなヒンジが三角の側廊から四角のチャペルの切り替わりのポイントで幾何学が変換しているようである。
小さなチャペルはドラマチックで多中心でありながら、すぐに心を落ち着かせることができる場所だ。左右対称と純粋幾何学が多用されているにも関わらず、格式ばった軸線や静的な構成は見られない。ずっと見ているとより複雑なレイヤーがかけられていることがわかる。四角いプランのチャペルは墓地の外側の壁とは45度の角度をなしていてプールの中に置かれている。10個の背の高い窓が開けられて、チャペルを取り囲む水盤に目をやることができる。水盤は我々が立っている床と同じ高さに設定されているので、水面から反射する光がこちらの天井や壁にバウンドする。チャペルの天井はスチールで縁取られて、濃いグレーの石膏パネルが正方形の3/4を使ってL型にセットされている。残りの1/4の部分にはコンクリートと木製のピラミッドのドームが祭壇のある北側の上部に開けられている。四角い石の舗装は壁から切り離されていて、コンクリートで見切られている。壁際には影を作る深い溝が取られている。床の中央には葬儀の際の棺の位置を示す長方形の艶やかな大理石の板が埋め込まれている。その位置は祭壇とは45度の角度をなすピラミッドの天井にも印されていて、床の大理石をなぞるようにジグザクがつけられている。
祭壇は木製のピラミッドの頂部に開けられた正方形のトップライトの下に置かれている。スカルパは当初は打ち放しコンクリートで祭壇をつくり、艶のある表面にするつもりだった。しかし、これはあまり良くないとわかって、同じ形の銅で組み立てることにした。そしてコンクリートを流し込んで形状を固定させた。祭壇の正面はT字型になっていて、両脇の下方はジグザグ状に引っ込んでいく。頂部中央の凹みには十字架が固定されている。そして直径22mm、3本で一対となった西洋ナシの木で作られた華奢な燭台が木製のドームから吊るされている。
祭壇の背後両脇の壁には4つの正方形の窓が飛び飛びでセットされている。いずれにもポルトガル産のピンクの大理石の開閉パネルがつけられていて、透過する光を色付けしている。祭壇の真後ろ、内陣の床は真鍮で縁取られて堅木のフローリングで仕上げられている。内陣のさらに後方のコーナーには両開きの扉がピボットヒンジで支持されていて、ドアの下端は外部の水盤の少し上のレベルにある。120度の角度で開くとコーナーからきらめく光がチャペルのなかにバウンドしてくる。両方のスチールフレームのパネルは2つの石の板がはめられていて、外側の面には小さな十字架が刻まれた黒い大理石が、内側は白いクラウツェット(Clauzetto)産の大理石でできていて、こちらは緑のクモヒトデ石(Stella serpentine stone)と真紅の斑岩が2つの円が噛み合うようにして埋め込まれている。扉の外側ではコンクリートの段々が水中に沈んでいくのがみえる。
チャペルの西側では縦スリット状の10個のFIXガラス窓が壁面を11分割している。あるいは、我々はドアを2つの追加された垂直な窓を区切る壁だと解釈することもでき、その場合チャペルに宗教的に意味のある数である12の開口をもたらしていることになる。ドアは両脇に縦長のスリット窓、上部に56cm×65cmの2つの窓があることで、文字通り光の中に立っている。どちらのドアも平面的にL型であり、端部から少し内側に真鍮製のピボットヒンジが床と秣に取り付けられている。ドアは外側に90度開き、開いたときはL型ドアの短辺はスリットガラスからの光を遮るようになっている。3つの円形でできた水源のミニチュア版ともいえる真鍮の排水用の溝がドアの下部のコンクリートにはめ込まれている。ドアを開けて外に出ると、我々はコンクリートの庇の下に至る。
コンクリート製の幅広の踏み石が池の中から立ち上がっている。それは水没したジグザグの段々に支えられていることから、我々に破壊された廃墟と創造を思い起こさせる。「水深くに横たえられたものはヴェネツィアの創設を想起させる。この崩壊された様は変容であったり、あまつさえ再生の儀礼といったイメージを起こさせる。量塊は沈没して、礎は目に見えている…。しかしこれらの意味するところは、木の根のように、生気の起こりだったり、成長のためのとっかかりである。」エイドリアン・ストーク(Adrian Stokes)はこのように記した。踏み石を渡ると掘り込まれた糸杉の林にたどり着く。左手には6本の糸杉がまとめられ、右手には5本ある。まるで未完であるかのように不安定で正確ではないグリッドに乗せられている。スカルパの意図は要するに、「サン・ビートでは私は水と大地の意味を表現したかったのだ。水は命の源なのだ。」ということだった。水の中にぼんやり見える遺構に囲まれて、イタリア糸杉の庭の記憶が我々の視界を満たす。全てがとても近く、でもとても遠い、そしてスカルパが我々に残したこの仕組まれた経験、建築的な空間と人の動作との融合、古代と現在、光と水の企てー全てがヴェネツィアとヴェネト州に特有であるーが完了した。ウィーンの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)は「これは精神を露わにさせる偉大な誘惑だ」と記している。そしてブリオン家の墓地によって、スカルパは同時代の誰にも比べるべくもない次元で人間の精神を表現することに成功した。
年代順としてはスカルパの最後の仕事ではないにしろ、スカルパ自身が望んでこの地に眠っている事実をもってして、この物語の結びはブリオン家の墓地にある。こんにち我々がスカルパの墓を訪れ、彼が亡くなった1978年、ブリオン家の墓地について語った彼の言葉を思い出す度、少なくない哀愁を感じる。「これは見に行くのが楽しみな唯一の仕事だった。なぜなら私はこの田舎の風景の感覚をブリオンが望む方法でつかまえたと思ったからだ。誰もがここに行くことに幸せを感じる。子供が遊び、犬が走り回る。全ての墓地がこうあるべきだと思うね。」スカルパの墓はブリオン家の墓地の角の内側、既存の共同墓地の境界に並んだ場所に位置している。だから彼は古い墓地と新しい墓地の両方に眠っている。
コンクリートの重いゲートを開け、スカルパが眠っている敷地の角に歩いていく。大理石の暮石は彼の息子であるトビアがデザインし、スカルパは古い慣習に倣って立位で埋められている。スカルパと色々な意味で近かったパウル・クレーは彼らが時間の流れに対して繊細な感覚を共有していることに特別な敬意を表していた。ブリオン家の墓地が描いた人類の企てと勝利について、こう述べている。「物理的な無力感に抗って、精神、大地、そして宇宙を計測する男の能力。これが彼の基本的な戦略だ。精神性こそ戦略。どうしようもなく限りのある肉体と精神の流転、この2つが同時に存在するのが人間実存の二分法の帰結なのだ。」
1978年11月、日本での滞在の間じゅう、和服を着て茶会に参加したり、新旧の日本の建物を見て回っていた。11月28日、仙台にいるとき、屋上階段からの落下が原因でスカルパは亡くなった。近くの建物をよりよく見ようとしていたのだという。落下してから11日間、スカルパは生きていた。話せはしなかったが、いくつかのドローイングを残していて、彼の死後に家族や友人に渡された。この出来事はスカルパの人生を特徴付ける2つの側面がある。古代から現代の、そして密接に絡み合う文化がつくる建築に対する永久的な愛情と、世界を見るために相変わらず手を動かし続けること。なぜなら、彼が作ったものは彼ひとり知ることができたのだから。
「実体が見たいんだ、他はなにも信じない。紙の上に実体を描く。そうすれば見える。見たいから描く。描き出すことによってしか想像することはできない。」